5月20日の乱読のセレンディピティに次いで2冊目の紹介。
著者がお亡くなりになられたとのこと。この本を紹介しないわけにはいかないと勝手に思ったので。
謹んで哀悼の意を表しご冥福をお祈りいたします。
思考の整理学 外山滋比古
学校はグライダー人間の訓練所。飛行機人間は作らない。
受動的に知識を得るのがグライダー人間。自分でものごとを発明、発見するのが飛行機人間と。
ギリシャ人が人類史上最も輝かしい文化の基礎を築き得たのも、かれらにすぐれた問題作成の力があり、“なぜ”を問うことができたからだといわれる。
創造性がやかましく言われるようになったのは、グライダー人間があふれているから。
思考については、寝させるほど大切なことはない。思考を生み出すにも、寝させるのが必須であると。これは、誰もが経験があるのではないかと思う。
「思考の整理には、平面的で量的なまとめではなく、立体的、質的な統合を考えなくてはならない。この本で、着想の醗酵などについて、ことにくわしく考えてきたのは、この点を考えたからである。これを思考の純化と言いかえることもできる。」
この本でかつて赤線を引いて、時に挨拶でも使ったことがあるのが「時の試練」のタイトルの章。
「島田清次郎は大正の文学青年から見て、まさに天才であった。それを疑うものはすくなくなかった。それがどうであろう。僅か六十年にして、ほぼ、完全に忘れられてしまった。当時としては、むしろ、夏目漱石の文学について疑問をいだくものが多かった。批判もすくなくなかった。それがいまでは国民文学として、近代文学においても比肩しうるものなしと言われるまでになっている。(中略)時が経てば、たとえ微少でも、風化がおこる。細部が欠落して、新しい性格をおびるようになる―――これが古典化の過程である。原稿のときとまったく同じ意味をもったままで古典になったという作品は、古今東西、かつてなかったはずである。かならず、時のふるいにかけられて、落ちるものは落ちて行く。」
文学作品だけではないと思う。つくづく思うのがいろいろな団体の活動、最初の設立の趣旨、活動の実態、本当に残るものは残ると思う。普遍的な古典化した活動として。
忘れる、すてるということを思考の整理としてあげている。
「たえず、在庫の知識を再点検して、すこしずつ慎重に、臨時的なものをすてて行く。やがて、不易の知識のみが残るようになれば、その時の知識は、それ自体が力になりうるはずである。
論文のとにかく書いてみるは納得。
大学院時代に論文の構想発表があるが、構想だけで書きだしていない人は、結局2年間で書けない。とある教授がよく言われていた2年間で書けない人はだめ。年限を守るということが第一だと話されていたことは忘れない。2年で論文を書けなかった人達を近くでみてきた。その後のことは知らないのだが。
ことわざについて。
どこの国においても、おびただしい数のことわざがあるのは、文字を用いない時代から、人間の思考の整理法は進んでいたことを物語る。
そんなことでいくつかことわざを選んで今の自分の立場からコメントして終わりにする。
・災害は忘れたころにやってくる
これは常に頭に入れておかないといけない。
・天知る地知る我知る人知る
これからもクリーンに生涯にわたって恥ずかしくない政治を。
・綸言汗の如し
これは常に緊張感をもって言葉を選んでいかないと。