セットの古本をネットで購入。写真からその古さが伝われば。
やっと六冊目まできた。中抜きもあったが、また別の機会に目に触れるだろう。
本当かな?
以下メモ
エセー(五)モンテーニュ
「いかに学問が有益で望ましいものであるにしても、われわれはいざとなればそれがなくても十分にやってゆけるし、それなしにも仕事を果たせると思うからである。よい資質に恵まれ、人間の交際に長けた魂は、ひとりでも十分に楽しめる。学問はこのような魂の生み出したものの記録であり、帳簿にほかならない。」
「世の中には私と同じく、良い手本を真似るよりも悪い手本に逆らうことによって、追随よりも忌避によって、教訓を得る性分の人がいる。大カトーが『賢い者が愚か者から学ぶことのほうが、愚かな者が賢い者から学ぶことよりも多い』と言ったのはこの種の教訓を指したのである。
「もしも私が物事を間違って見ているとしたらどうだろうか。これはありうることである。だから私は自分の不寛容を責める。そして、まず第一に、これは正しい者にも間違っている者にも不徳であると考える。なぜなら、自分と違う考えに我慢ができないというのは、常に暴君的な気難しさからだ。」
「われわれを支配し、命令する人々、世界を手中に握っている人々・・・、そこで彼らにとっては沈黙が威厳のある、荘重な態度であるばかりではなく、しばしば有益で、損をしない態度でもある。(中略)高位や官職は必ずその人の真価よりも運命によって与えられる。」
エセー(六) モンテーニュ
「私は普通、運命が私を傷つけるためにまき散らす攻撃的な推測を、自分を弁解し釈明するのを避けるという私の常套手段で手伝ってやる。良心のために弁護するのは、かえって良心を危険におとしいれることだと思うからだ。≪なぜなら事柄の明白さが議論によって曇らせるから。≫そこで、まるで皆が、私と同じくらいにはっきりと私の心の中が見えるみたいに、私は非難に背を向けずに、逆にこちらから進んで、風刺的な、嘲笑的な告白をして、その非難の値打ちを高めてやる。もっとも、返事をするにも値しないものとして黙殺する場合は別である。」
この言葉に今出会うのは偶然か必然か。
なぜ書き記したか?
わかる人にはわかるでしょ。