『民主主義の源流 古代アテネの実験』橋場 弦
民主主義を生んだ古代アテネの話。
アテネの民主政発展の起動力となったモチーフはなんであるか。あえて言えば、それは「参加(パーティシペーション)」と「責任(アカウンタビリティ)」であったと。
できるだけ多くの民衆の参加は政治のアマチュアリズム。
「参加」の原則が市民たちを政治へといざなう呼び声であった。
政治家や役人の公的責任を、一般市民が苛烈なまでに追求し、その所在を明らかにし、彼らの行為に不正があれば容赦なく裁きの場に引き出し、処罰しようとする力も、常に民主制を動かしてきた。
現代の参加と責任はどうだろうか?
選挙へ行かず投票さえしない人、また一度投票したあと選ばれた人のその後のフォローさえしていないのではないか?
民主政の本質は何か?
民主政の確立のために様々な試行(悲惨な弾劾も含めて)があってたどり着いたのは、法(ノモス)を民会決議(プセフィスマ)とは厳密に区別し、そして前者が後者に対して優位にあることを明確に確認した。法の支配によって安定した統制のとれた統治を実現した。
成文法主義、基本法の最優位、法の下の平等という原則がこのころ確立している。
どこかの国のように時の政権によって法の解釈が変わるのはいかがなものか?
改憲手続きはハードルが高くていいと思うが、全く変える必要がないと盲目的に叫ぶのもどうかと思う。
このころ役人になるには専門技能や適性以前に、まず民主政アテネの市民としての適格性を問われた。現代はどうなのであろうか?市民としての適格性とは結局は人間性ということだろう。
古代ギリシアの市民は、あらゆる方面にバランスよく、しかもそこそこに能力を発揮することが、民主政を支える市民としてふさわしい生き方だと考えていたのだそうだ。
ペリクレスの有名な葬送演説に次の一文があるそうだ。
「われらのポリス全体はギリシアが追うべき理想の顕現であり、われら一人一人の市民は、人生の広い諸活動に通暁し、自由人の品位を持し、己の知性の円熟を期することができると思う。」
解説にはかなり厳しいことが並ぶので控えるが、それだけ責任が求められているし、責任を果たしてこそ、初めて自主独立の自由があるということですね。